幼稚園のイベント、夏祭りの日。
私は、幼稚園から帰るまでに1時間半かかった。
でも、その時の私は、1時間半も経っていたなんて思いもしなかった。
もはや帰宅ではない。
戦いだった。
夏祭りも、もうすぐ解散の時間。
「あと30分したら帰ろうね。」
そう言って、私は少し早めから帰る準備を始めた。
次女もいたし、違う方向に行きたがる二人を見るだけで目が離せず、私はすでに汗だく。
荷物も多い。
早く帰らないと。
そんな焦りがあった。
その焦りを、長女は感じていたのかもしれない。
無理やりにしようとすると逆効果。
そんなことは、もう何度も経験してわかっていた。
それでも、その日は早く帰りたかった。
気づけば夕方6時30分。
さっきまで何百人もいた園児たちは、もう誰もいない。
残っているのは、うちだけだった。
まず、幼稚園の駐輪場の門が閉まる。
中に残っている自転車は、うちだけ。
長女は自転車に座らない。
次女は泣き続けている。
園内には放送が流れる。
「まもなく閉門します。お帰りください。」
焦る。
たまたま通りかかった先生。
バスの運転手さん。
声をかけてくれる。
少し手伝ってくれる。
でも、だめ。
やっとの思いで長女を自転車に座らせた。
ロックもかけた。
「よし。」
出発。
少し走った。
……あれ?
後ろでガタガタ音がする。
立ってる?
振り返ると、
長女が自分でロックを外して立ち上がっていた。
「危ない!!座って!!なんで外しちゃったの!!!」
私は叫ぶしかなかった。
自転車は幼稚園のエントランスで止まった。
長女はまた降りようとする。
私は必死で座らせようとする。
なんて力が強いんだろう。
汗だく。
長女の浴衣ははだけ、
靴は脱げ、
気づけば靴下のまま歩いている。
もう何がなんだかわからなかった。
次女は眠さの限界で泣き疲れ、
自転車でついに寝てしまった。
本当はよくない。
でも、あの時は寝てくれたことにホッとしてしまった。
それくらい私は余裕がなかった。
どうしたらいいかわからなくなって、
私はエントランスで泣いた。
「もう、ママどうしたらいいの……。
〇〇(次女)もいるんだよ……。
お願い、ママを助けてよ。」
長女に問いかけた。
自転車を置いて、
タクシーで帰ろうか。
そんなことまで考えた。
少しすると、
娘さんと歩いてくる一人のお母さんがいた。
どうやら幼稚園の先生だった。
私は顔を知らなかった。
「どうしたの?」
そう声をかけてくれて、
長女を抱っこし、
誰もいなくなった園庭や駐輪場が見えるところまで連れて行ってくれた。
「ほら、もう誰もいないよ。おしまいなんだよ。」
そう言って、一緒に見せてくれた。
本当にありがたかった。
泣いても解決しない。
でも、
誰かが一緒に考えてくれた。
それだけで、少し救われた。
それでも長女は納得しなかった。
先生は言った。
「担任の先生は誰かな?呼んでみようか。」
私もそうしたかった。
でも先生たちは忙しそうで、
まだ誰も私たちに気づいていなかった。
もう園舎には入れない時間。
中では先生たちが掃除やミーティングをしている。
ガラス越しに必死で手を振る。
「先生ーー!!」
やっと担任の先生が気づいた。
先生もびっくり。
「え!?まだいたの!?」
そんな表情だった。
すると先生は、
ガラス越しに笑顔で言ってくれた。
「〇〇ちゃん、さようなら。」
「おやすみ。」
その瞬間だった。
さっきまで何をしても座らなかった長女が、
落ち着いて、すんなり自転車に座った。
私は、その瞬間、ハッとした。
そうか。
この子は、ただ帰りたくなかっただけじゃない。
まだ「さようなら」が終わっていなかったんだ。
毎日、
先生に「さようなら」をして帰る。
その流れが、
この子の中では「帰る」という一つの約束になっていた。
夏祭りの日だけ、
それがなかった。
だから、
この子の中では、
まだ幼稚園は終わっていなかったんだ。
あの日の私は必死だった。
暑さでヘトヘト。
二人を連れて、
なんとか帰ろうとするだけで精一杯。
だから、
「なんで帰れないの?」
そう思ってしまっていた。
でも、本当は違った。
長女には長女の理由があった。
もっと理解してあげればよかった。
そう思った。
子どもって、
毎日の習慣を、
私たちが思っている以上に大切にしているのかもしれない。
先生の「さようなら」。
たったその一言が、
長女にとっては帰るスイッチだった。
私はあの日、
帰れなかった理由じゃなくて、
この子が帰れなかった理由を知ることができた。
それが、
あの1時間半で一番大きな出来事だった。
家に着いたのは夜8時過ぎ。
暗い道を、自転車をこいで帰った。
あの日は本当に疲れた。
でも今振り返ると、
毎日の「さようなら」が、こんなにも大切だったなんて。
今日もまた、長女に教えてもらった。
